あなたの好きな物を目で追うようになった。
これは、一番質素で飾らない本質的な愛の標のようにも感じる。
それが、相手からもきちんと感じられるということがどれだけ幸せなことか。
実家では、私と妹は甘口のカレー。
父と母と祖母は中辛か、辛口が普通だった。
途中まで一緒に作って、最後に鍋を二つに分け、辛口と甘口のルウを別に入れる。
なので、普段中辛や辛口を好んで食べる人が、いくら面倒臭いからと言っても、寸胴鍋にいっぱいの甘口のカレーを月に一度作ってくれることは、愛以外の何物でもないように感じたりする。
本人は本当に手間なだけで、私の自惚れかもしれないし、私があまりにもしつこく強請るから渋々作ってくれるだけかもしれないけれど。
今日の夕焼けは柔いピンクと霞掛かった紫色をしていて綿菓子みたい。
だとか、
今日、夏のアスファルトの匂いがしたよ。
だとか
紫陽花の上にカタツムリを見つけた。
だとか言った他愛ないことを一報したくなるのは、かの有名な夏目漱石が言った「月が綺麗ですね。」に似たものがある。
言うなれば私のアイラブユーなのだ。
しかし、それは恋人に告げるアイラブユーと少し形が違うように思う。
ずっと未来まで、少しのときめきをおすそ分けし続けたい人に送る、また、そんな想いを少しこそばゆく感じながらもホッコリしてくれる距離感の人に送る愛の形。
何故か、紫陽花が綺麗に咲いていて写真を撮ったのに仕事で疲れているだろうあの人や、これから会いに向かっている友人ばかりに送ってしまうのは、形が違うからかもしれない。
最近はほんの、本当に取るに足らない、
写真に収めるまでもない。
もっと言うと美しくもない日常の幸せを共有したくなるのが恋人へのアイラブユーなのではないかと感じる。
スーパーに寄って買い物をして帰る時、
ししとうが半額になっていた、とか
好きなカップラーメンの限定の味が出ている、とか。
そういう、日常の中で毎日起こる一人では1mmにも満たないかもしれない幸せが
一緒にいると最高な幸せになることこそが
恋人への、そして恋人とのアイラブユーだ。
劇的に恋をして、炎のままで燃えきらず。
そしていきなり終わりが来た。
そんな恋へのアイラブユーもあった。
そこに、ただ "恋" をさせてくれる人が居て、
それは愛になりきる前に壊れて消えた。
シャボン玉だった。
あの頃の、今よりもっと透明で真っ青だった私よ。燃え上がるだけが恋愛ではない。
大切を慈しむ、穏やかな日々も悪くないのよ。
終わりは来るかもしれない。
それは人間だから。
人間同士だからね。
でも、関係の死を待つだけじゃない。
あと何回、寝顔が見れるか
何回助手席に座って、
何回喧嘩して泣けるのか
そして何回少し未来の約束をして、
カレーの匂いに心躍らせてドアを開けることが出来るか
分からないけど。
私は今の日々がとても大切で幸せで
愛して止まない。
そこには必要な人がいて、
その人と共に生きる時間に
ただ、今は浸っていたい。
最大限感謝して、私は今日も生きるよ。