泣き疲れて眠ったことも、無くなった関係の亡骸を抱えて痛んだ胸も、全てが鮮明に残っている。
人生で一番長く大切にした人は消えてしまったのかもしれない。
もしかしたらあの子の元へ行ったのかもしれない。
私がどんなに懸命に貴方の素敵なところを叫んだとして、それに意味はなかった。
当たり前ではあるけれど、その孤独は生涯貴方のものでしかなかった。
私のことをどれだけ愛してくれようと、私が返せる全てを尽くしたところで、あの日殺した愛情や、大切な何かへの永い永い憂いの色と見比べて少しでも輪郭がぼやけて見えると苦しくなるのだ。
大切になるのが怖い。
常に私が鮮やかな世界にいることは出来ない。
メッキが剥がれたら、ガラスが割れたら、色が混ざったら私は少しずつ醜くなって、その度に私の元から人が去る。
どんなに私に愛があろうときっとそれは変わらない。
他者が私の生き様に抱く不安、即ちそれはエゴである。分かっているのだ。
無償なんてものは無い。
愛と呼んでいるだけでそれは押し付け、
ないしは執着で、とても利己的なものなのだ。
それでいい、それだからこそ美しいし愛おしい。
ただ、愛、ないし執着というものの賞味期限は非常に短い。
おそらく期限が切れても口にすることは造作もないが、鮮度や味は確実に落ちる。
少しずつ少しずつ死んでゆく。
カラカラと終わる音がする。
関係性に名前があれば、貴方は今でもそばに居たのかと思うこともある。
否。
名前のない、なんとも言い様のない関係は、とても緩やかに穏やかに変化し、長く味を保って、そこに在り続けた。
逆に名前の付いた大きな大切は一瞬の光となってすぐに死んだ。
あの日、二人で大切に大切に弔って瞬く間に風化した。
人間なんてそんなものなのだ。
名前がある関係に安心して甘えてしまったりする反面、名前をつけずに愛だけで育てられた関係は緩やかにしか冷めない。
私は間違っているのだろうか。
そんなに名前が大切なのだろうか。
大切な人たちと私の関係に、友達とか恋人とか、そんなチープな名札をさげたくないと思う私がおかしいのだろうか。
これがわがままなら、私なんて突き飛ばして走って逃げればいいのだ。
そのままだと傷つくのは紛れもない自身なのだから。
私が与えられる幸せなんて限られているし、私と共に死ねる人なんて私より他にいない。
死にたがりで苦し紛れにアルコールを流して、体を鈍感にさせて心だけを露出して、そうやってしか生きられない私を、その時目の前で笑っていてくれる人と向き合って幸せだと呟くことしかできない私を、無理に愛してくれなくてもいいのだ。
私すらこんな人間を抱きしめることが出来ないのだから。
私は人を苦しめたくて息をしている訳では無いのに。
自分は疎か他の人の日々までも壊すこんな人間をどうやって愛せばいいのだろう。
答えが出る前に私の事を葬り去ってしまいそうだ。
私って私と生きていく気はあるのかしら。
今日も私なんかを大切にしてくれてる全ての人と、あの日の私への懺悔をしなくてはならない。
ごめんねせかい。
ごめんねわたし。
ps.私の戯言置き場も気づけば三年目だそうです。
覗いてくれる皆様、本当にありがとう。
雨ばかり降らせてしまうけど、いつかこの雨で草木が萌ことあれ、といった気持ちで、これからも綴らせてください。